ご挨拶|鋼材の販売なら松山鋼材株式会社|千葉県旭市

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松山鋼材のホームページへお越しくださり、誠にありがとうございます。

私たちは、一般鋼材の一次加工や鉄骨建築用の鋼材・胴縁の二次加工を行う鋼材加工屋です。
お客様に安心と信頼をもって喜んでいただけるよう、ご注文をいただいてからご納品、ご納品後のサポートまで、
社員一同徹底的に目配り、気配り、丁寧できめ細やかなものづくりに励んでおります。

また国内各地の案件のほかにも、ユニークな発想とチャレンジ精神で、
中南米ニカラグアやホンジュラスの医療施設への母屋・胴縁の納入や、
日本国政府のタンザニア共和国支援案件として、
アフリカのビクトリア湖畔のキルンバ魚市場建設など海外案件にも携わりました。
現地の方々の安全のために、採算を顧みず完工したことは当社の誇りであります。

今後も私たちは鉄を通して、建築業界、社会に貢献できる会社を目指します。

松山鋼材株式会社
代表取締役 向後賢司

創業のきっかけ

我が家は祖父の時代から事業家で、戦前は土木建設、戦後は時代の食料不足に目を向け、地場特産のさつまいもを用いた澱粉や水飴の製造、醤油の醸造など、多品種な食品を製造するメーカーでした。私の幼少時は東京の堀留や錦糸町にも事務所を構え、農林省の指定工場にもなっておりました。良家のボンボンとして育った私ですが、5歳の頃に、悪徳な高利貸のブローカーに騙されて財産を根こそぎ取られてしまいます。

会社は破産宣告を受け、家財の差し押さえも幼心に目にしました。その様子を祖母が私に見せまいと体を抱き寄せ、執行官に叫んでいた時のことは今も脳裏に焼き付いております。小さな町であるが故に、小学校に入ってからは友達に馬鹿にされ、いじめに遭う毎日を過ごしました。父兄会の授業参観に来た母が、周囲の父兄の冷めた目線にも屈せず、最後まで私を見つめて微笑んでくれたことは今でも忘れません。

創業のきっかけ

苦境の底に落ちてからは人生が180度変わる展開が待ち受けていましたが、私は負けませんでした。3人の妹がいる長男であることで自分を追い込み、相撲も野球も喧嘩も負けることはありませんでした。

小学校、中学校時代も両親の祖父祖母の事業家だった家系のプライドを持ち、いつも表舞台を歩きました。
高校時代はお金になるアルバイトを次々見つけては働いていました。夏休みには横浜の材木商を紹介され、ベトナム戦争でアメリカ軍の戦車が通る仮の橋に使う材木の選別仕分け人夫をしていたこともあります。炎天下のなか、日雇人と一緒に塩を舐め、倒れないよう必死になりながら一か月耐えました。毛穴から塩の結晶ができたのはその時だけです。

母の実家の酒屋の小僧としても一年ほど勤め、毎朝3時半から6時半まではヤクルトの配達を100件ほど、夜は夕方4時から9時頃まで酒の配達をするなど、当時の銀行員さんの初任給よりも稼いでいたほどです。

「両親に心配をかけまい」という一心で、厳しい母方の祖父のもとで風呂掃除や廊下の雑巾がけ、水まきなどをこなし、17歳の子供にしては、我ながらよく頑張っていたと思います。実家の祖父が亡くなり家に戻ったことでアルバイトが無くなり収入が途絶えたとき、父に「自分は東京の暮らしができないので一緒に商売を始めよう」と問いかけました。このとき父がもらい泣きしていたことを知るのはずっと後のことです。息子が商売をしたいと申し出て、慌てていたのは父のほうでした。

「昔の土建屋に戻ろうか」などと試行錯誤した後に、父は「鉄屋をしよう」と言い出しました。この付近には鉄屋が無いと自信を持って計画しましたが、いかんせん元手が無い、経験や仕入れ先も知らない。
そんな状態で地元の造船所や鉄工所、建設会社に対して営業を開始しましたが、知らないことは良いことで、いろいろな人が鉄のことを教えてくれました。私が高校3年生の秋の頃でした。

つまり、創業のきっかけは「家系のプライドを保つこと」。
これが全てであり、松山鋼材の始まりです。

今もその時のことを忘れず、「鉄屋」として、「鉄人」としてのプライドを持ち、今日も鉄と向き合っています。

代表取締役向後賢司